猫背歩行

普段言いたくても言えないことを、色々。

まなざし。-モブキャラとして生きるわたしとなんにもないことについて-

自分のことをなんにもない奴だと思う。

 

なんにもないまま歳を重ねてアラサーになった。

特に生活に不自由しているわけではないけど、なんにもない。ということが喉につっかえていつも違和感がする。

 

しかしモブキャラみたいな自分が嫌だと思うその真理は、世界が自分以外の視線によって構築されている、というごく健全な思考からなるのだと気付いた。

わたしをモブキャラたらしめているのはまぎれもなくHe/Sheの存在であって視線である。

裏を返せば、彼らや彼女たちがいなければ(わたしがその存在に気付きさえしなければ)わたしは主婦でもホームレスでもニートでもなんであってもモブキャラにはならないのである。

 

そんなことを気にしている。

薄っぺらい0.03ミリくらいのいやらしい自分のプライドや見栄が恥ずかしい。

 

でもさいきんは極薄でもなかなか破けないよね

 

人間って難しいな〜

寂しさが人を殺す

こないだ会った女の子は、手首がリストカットの痕でズタズタだった。たんなる切り傷じゃなくて、ほんとに深くパックリやってしまったようで、なかの肉が膨れ上がって小さな山が腕の中にいくつかできていた。話をしてみても、だいたいは自分の不幸についてか、そうでない話題を振ってみても、結局上手くいかない家族関係や環境の話になった。でも彼女は笑っていたし、わたしがウンウンと話を聞くのが嬉しいみたいだった。


出勤するたびに泣き出したり倒れたりする後輩がいた。比較的歳が近かったので、話を聞いていると彼女も色々と心の内を話してくれたけど、仕事の悩みはともかくとして、結局しんどい自分、仕事についていけない自分に気づいて欲しい、もっと心配して欲しいという想いが手に取るようにわかってしまった。


4月には、身寄りのない友人が最愛の彼氏に浮気をされたショックで亡くなってしまった。


結局みんな寂しいんだよな。

寂しさは人を殺してしまう凶器。

承認欲求も、自分を見て欲しい欲も、わかって欲しい欲も、寂しさからくる。人は寂しくて本当に傷つくし死んでしまうけれど、そんな人を救えるのも結局人でしかない。それはお金でもセックスでも思想でも神でもない。言葉にできないような、言葉にしようとすることすらアホらしくなるような、20数年生きてきて聞き飽きたような、思いやりとか優しさとか、恥ずかしくなるくらい当たり前の感情の大切さが身に染みる。

素っ裸の芸術と代替可能な芸術について

趣味で、いろんな音楽を聴く。いろんなライブに行く。

プロでも、アマチュアでも、メジャーでも、インディーズでも、売れていても、売れていなくても、そんなのは関係なく、そんな安っぽいカテゴライズを飛び越えて、耳に引っかかる音楽というのがある。

 

そういう音楽に出会う度、皮膚の裏側がゾッとするような感覚になって、体じゅうの血流が一瞬だけとまる。

その感覚がうれしいし、それが生き甲斐だ。

 

こうすればカッコいいんでしょ、とあざとくパッケージされた音楽は、確かにカッコいいんだけど、それだけだ。

カッコいいものはこの世にいくらでもあるから代替可能だし、代替可能なものはマーケティングによって作られる。

なので、そもそも、この場合、"あなたである必要"がない。

だから、耳に引っかからない。

 

あなたにしか書けない言えない言葉や心を切り取って表現されたものだけがやっぱり誰かを振り向かせるし、わたしも振り向いちゃうし、とっても素敵だ。

でもってそれは人生で人体で内臓で、絶対誰にも奪えなくて、悲しいけど奪ってあげられもしないようなものだ。

 

 

残念なのは、演奏の上手いバンドや、歌の上手いシンガーソングライターはいっぱいいるのに、あなたでなければいけない理由があるミュージシャンはとても少ないことである。

 

 

そもそもわたしは、赤裸々な人が好きだ。

本当にカッコいいものは、本当は全然カッコよくなくて、みっともなくて、恥ずかしくて、生々しい。その形は人それぞれで、でも人それぞれ必ず抱えているもので、それが剥き出しで差し出されたとき、わたしはあなたと向き合うことができて、あなたもわたしと向き合うことができて、お互いに秘部をこっそり見せ合うようなオーガズムを感じる。

その瞬間だけは、普段の生活の中で、面倒くさがられるのが怖くて誰かに泣きつきたくても言い出せないことや、死ぬほど後悔していることや、恥ずかしくてずっと隠している漠然とした不安を、少しだけ、あなたと共有できている気がする。

 

あなたが真剣にあなたに向き合った結果生まれた音楽が、わたしをわたしと向かい合わせてくれる。

それが芸術なのかな?と偉そうに思ったりもする。

 

 

音楽の楽しみ方は人それぞれでもちろん良いけど、お金儲けを考えた時点で、そのミュージシャンはビジネスマンだよ。と、大槻ケンヂが言っていた。

 

わたしが自分の大事な時間を使ってyoutubeから、CDから、ライブハウスから出会いたいのは、いまのところビジネスマンではない。

 

ミュージシャンである。

 

少なくとも大槻ケンヂはミュージシャンだと思っている。

音楽とわたし。

人前で歌うことを始めて、早7年になる。

音楽は基本的にずっと聴いていて、イヤホンはすぐ断線する。

わたしをここまで生かしてくれた音楽があったのは本当に確かで、わたしにとってそれは、フェスで友達や恋人との距離を縮めたり、大声を出してしょーもないストレスを発散するためのものではない。
もう消えてしまいたい、どうしても越えられそうにない夜に、1秒1分生き伸ばすための音楽。安定剤が効くまでの30分、誰の手も借りずに耐え忍ぶ時間を埋めるための音楽。生きていたらいつか幸せになれるのかどうかは知らないけれど、生きてしまっているから、生命の続く一瞬一瞬の痛みをせめて安らかにするために、音楽。

2017年はギブソンのギターを買った。

自分の言葉を自分の演奏で歌ってみたかったからである。

全部自分、全部わたし。

出会った人が、生きててよかったー!て思うような崇高で素晴らしい芸術はきっと残せないけど、もしかしてこの人私のこと歌ってくれてる???って思ってもらえる凡人ならではの人間臭い音楽ならやれる気がしているし、それで生き辛い人の孤独が少しでも癒えればいい。

そうすることが音楽へのささやかな恩返しだと思っている。

 

残念ながら、メンヘラなんて言葉で片付けてもらえるほど、わたしは軽症ではない。だけど、だからこそ、おなじ景色を見た人にだけわたしは味方してみたいと思うし、一緒にランチにも行ってみたいし、オススメの映画を一緒に見たい。薬漬けのからだでも、ボロボロの左腕でもいいから、とりあえず生きててね。

正しさの在り処

理科の実験や、家庭科の調理実習が苦手だった。

みんなの前で先生が実験や調理の手順を説明する。おそらくそんなに難しいことはない。しかし、さあみんなも同じようにやってみなさい、と言われた途端、きちんと出来ているか、これでいいのか自信がなくて、分からなくて、とても不安だった。

わたしが合っていると思っていても、自分が正解だと思っていても、他人の目で見たら、ほんとはどこか間違っているかもしれない。

 

受験勉強やテスト勉強も、大変だった。

いま数学の勉強をしているけど、本当は英語をやるべきじゃないのか。そう思いテキストを閉じて英語の教科書を開く。しばらくしたら、やっぱり日本史を暗記するほうが時間がかかりそうだ、と不安になり、今度は日本史のノートを開く。

自分の選んだ手順や方法は、とても間違っている気がする。気持ちだけが焦って、集中できない。

 

 

自分の行動は間違っている、

わたしは未熟だ、という大前提が、わたしにはある。

だから、自分の行動も判断も、総じて信用できない。

疑うことをやめられない。

これでいいと、思えない。

根拠のない自信を持てる人が羨ましい。

 

社会に出たら、なんのエビデンスもない自己主張を振り回して襲ってくるとんでもない奴にチラホラ出会った。

明らかに未熟で穴だらけの自論を、堂々と掲げている。

 

根拠も証拠もなく、自分を自分で認めてあげられるその図々しさが、よくわからない。

だけど少し、羨ましかった。

 

 

今でも、この休日の過ごし方は合っていたのだろうか、正しかっただろうか、無駄な時間はなかっただろうかと、不安になる。

なにに基づいてそれが正しいと言えるのか、正しさの手本はどこにあるのかすら、ぼんやりしているのにもかかわらず、である。

教壇に先生はいない。

 

そんな日曜の夜。

 

ランニング療法

最近こっそりランニングを始めました。

 

こんばんわ、あみこです。

 

生まれてこのかた、すすんで体を動かすなんて絶対にやってこなかったわたし。

スポーツ好きな人、スポーツ観戦が好きな人、体育会系の人を、不憫なやつらめと小馬鹿にして20数年間生きてきました(ごめんなさい)。

 

 

 

もともと、精神的に不安定な部分や神経が過敏な部分があり、大変な時はまあ大変だったり、それでもなんとかやり過ごしてきたのですが、ふと、"あ〜死にてぇ〜"とか言ってるウツ気味のスポーツマンは見たことがないことに気付きました。

 

そこで、今まで人生に全く取り入れたことがない要素を敢えて投入することで、意外とわたしの人生うまくfixするかも、、、と脱メンヘラを想い、こそっと始めたランニング。

 

 

 

近くのアウトレットで安くランニングウェアやらシューズを買い集めて、いざランニング処女を喪失した感想はというと、"めっちゃ生きてる!!!"でした。

走っているとき、不思議といつものように脳みそと思考だけに意識が集中しないので、日常的に感じている杞憂や予期不安、頭の中に絶えず棲みついている漠然とした不安感からも解放されるような感覚、、、

心と体が別々の存在のように感じて違和感があったり、どうしても頭の中で自分自身との前に進まない不毛な打ち合わせに没頭してエネルギーを消耗しがちでしたが、走っている間は、本当にこの体でこの世を生きているという実感ができる。

 

 

人間ってそもそも動物だもんね。

理性的な部分を休ませて、動物的になる瞬間はやっぱり大事なんだなあーーー

 

 

ガチゴチの理性でできた、ふぞろいなパズルピースを無理矢理当てはめて、ちぐはぐな生き方をしてしまっているという自覚のある方は、是非ランニングという新しいピースを🤗

 

言葉を撃ち落とすこととコックピットなわたしについて

ムカつくことがあると、いつもメールの新規作成画面を開いて、滝のように言葉を打ち込み続ける。

 

どうも、あみこです。

 

どんどこどんどこ脳ミソの中に溢れてくる言葉を、ひとつとして外すまいと集中力をフルに使って次々ライフルで撃ち落としていくような感覚。言葉はまるで羽が生えているみたいにびゅんびゅん脳内を高速で飛び回っているので、少しでも気を抜くと撃ち落せないで外してしまうこともある。そういうときは一瞬イラっとするけど、気を取り直して次の言葉の波をバンバン撃ち落としているうちに、気がついたらさっき撃ち抜き損ねた言葉を一緒にブチ抜いてるときもあって、そういうときはとても爽快。

 

この作業を無心で繰り返して、もう言葉が絞り切られて降りてこなくなって脳みそカラッポになったら、メールの内容は下書き保存。

地味だけどこれがわたしのストレス発散の1番効果的な方法です。

 

もう数えきれないくらいの下書き保存された不安や疑問や鬱憤をたまに読み返して、使えそうな内容のものだけを、折角なので一応誰もが読めそうなレベルまで研磨してブログにしたりSNSに晒したりしている。

 

昔から精神と肉体がバラバラな感覚がずっとあって、もっと言うと精神の方がわたしの本体なんだけど、それがこのからだをガンダムみたいに操縦しているような感覚が日常というか。

"喜怒哀楽がわかりずらい子"と昔からよく言われてたけど、それはアレだよ、、、子供だったからまだ自分自身のからだに慣れていなくて完全にうまく操縦できてなかったよね、コックピットのわたしはちゃんと悲しんだり喜んだりテンション上がったりしていたんだと思う。

 

未だに、自分の中心部は明らかに目から上の部分なんですよ。んで体と外界との間には薄い膜のようなものが張っているような感覚すらある。(俗に言う離人感と言われればそうなのかもしれない‥😭)

 

だから文章を書く時っていうのは、コックピットのわたしが肉体の操縦ボタンやハンドル?を一旦手放して、本当の意味で精神の存在とその声だけに意識を集中してフル稼働させているような感じなので普段の倍くらい脳みそがまわるから、めちゃMP消耗するけどなんか気持ちいいんだよねーーー