猫背歩行

普段言いたくても言えないことを、色々。

たまにはナマでしようよ

今日本屋で見たバーキンの名言もニーチェの名言もグレースケリーの言葉も、ビジネス書のありがたそうななんとかの法則も、見事に偉大な人たちの話の美味しいところだけをかいつまんでそれらしくパッケージングされていて、でもって何気ない日常や、さして変わらない自分自身の感受性に飽き飽きしているわたしたちはお洒落な表紙や著名人のそれっぽいコメントの帯に惹かれてまんまと買っちゃって、家帰ってUNIQLOのスウェットでぐうたらしながらパラパラ読んですぐわかった気になる。

 

 

SNSならもっと簡単だ。

 

偉人の名言にも、ポジティブになれる方法にも、パリの女性のカッコいい生き方指南にも、綺麗な外国の景色にも、なんにでもカンタンに触れられるようになったし、タップしてすぐに"いいね!"したりふぁぼしたりできる。もちろん例に漏れずわたしもそんな経験はたくさんしていて、その都度感銘?を受けたりポジティブ?になったりするけれど、残念ながらそんなインスタントな感性は一瞬で蒸発する。

なぜなら日常の雑音や重力に勝てるような質量のある情報ではないからです。それらは。

 

だってさ、その情報、第何次ソースやねん?って思いませんか?

 

 

最低限、"その人"自身がその人自身の言葉で書いた自伝やエッセイを読むべきだし、もっと言うと、(気がすすまないだろうけど)その人が影響を受けた(であろう)人物や思想や文学や時代や音楽や芸術についても知ることが大事だ。そういうたくさんのたくさんのたっくさーーんの楽しくなさそうで小難しそうなものの根っこから、地道に地道に時間をかけて育っていったのがその人の人生だし生き方だし考え方だしその"言葉"とやらなんだよなー。

 

おいしい実だけを食べても、ただオイシイだけなんですよ。なんの栄養にもならないようなジャンクな情報だけで時間を無駄遣いしたくないでしょ。

 

 

面白くないことやめんどくさいことやどうしようもないことを渋々でもいいから経験したその時間が結局あなたのカラダを作っているわけで、"その人"たちもそうだったわけで。

 

なんの重みも責任もない、バーチャルでお手軽な世界だけで生きてたらダメなんす。

 

生身のカラダでお金も時間もかけて感動したり疲労したり傷付いたりしたことだけが自分にとって本当だし本物だよ。

 

 

もちろん、ネット上で拡散力や発信力を身につけることはビジネスにも繋がる有能なスキルであることは間違いないからそれを否定する気は全くない。わたしもインスタをやっているし。でもスワイプしてスクロールして一瞬で回収され消費されているようじゃ、わたしもまだまだだな〜と思っている。あ、回収して消費できたと思っているあなたもまだまだだよね????だんだんワケわからなくなってきた

 

 

とりあえず、言いたいことは、

 

ナマ体験は大事にしたいなってことです。。。

 

 

 

自分の骨の髄をしゃぶりたい

ごきげんよう!!!!

 

人の誕生日は全く覚えられません!あみこです。

自分の誕生日がもうすぐだということも、すっかり忘れていました、、

ズボラなので毎年こんな感じですが。

 

もう26歳ですよ。

10歳くらいのときは、自分が20歳まで生き延びることはできないと思っていました。

 

だって毎日どこかの殺人事件がニュースになっている世の中で、自分がそれに巻き込まれないほうが稀じゃないのかと(具体的な事件数とかは当時知らなかったけれど)勝手に"ほっといても人間そのうち死ぬ感"をわりと日常的に感じながら生きていたわけです。

死は身近でした。

 

だから誕生日というのも、

この一年無事に生き延びきった幸運を祝うものなのだと思っていて。

(今年もニュースにならなくてよかったね!的な‥)

 

で、高校生くらいから意外と毎年生き延びているということに気づいたよね。

 

周囲にも拉致されたり殺人に巻き込まれたりする人はほとんどおらず(まぁそりゃそうですよね)、思っていたより日々が淡々と流れていたので、人生"いつ死ぬかわからないサバイバルゲーム"な感覚は次第に消えて、今度は(人間なんてしょせん都合のいい脳ミソなので)自分のいのちが無限であるかのように錯覚しはじめるわけです。もちろん永遠に死ぬことはない!と思っていたわけではないですが、"いつか死ぬだろうけど、ただそのいつかは当時のわたしにとってほんとに他人事だった"というか。食べても食べても減らない、伸びきったラーメンをダラダラ食べ続けるような感覚というか(わかりにくい)。

 

でも、ここ数年で、誰かが亡くなったり、結婚したり、出産したり、突然の異動で急遽今まで全力で取り組んできた仕事から引き剥がされる先輩がいたり、環境はボーッとしていたらすぐ変化してしまうこと、確実にわたしたちは時間を消耗していて死に向かっていること、頭では分かっていても、からだで分かっていなかったことが分かりすぎた瞬間が多々ありました。

 

 

 

わたしという存在が有限であることに本当の意味で気づいた時、わたしが生きているこのわたしの、よいところもわるいところも外側に出さずに腐らせて無駄にするのはもったいないし、せっかくいのちがわたしを選んで生きてくれているわけなので、その時間を大切にするのもいいかな、と思えたとき、少しだけ今までよりも自分を大事に扱うことができるようになってきました。

 

またわたしは(外からどう見えているかは知りませんが)自分を卑下したり過小評価したりするのが好きだったので(というか美徳だと思っていたので)、どうせわたしなんてとよく言っていたしほんとに思ったりもしていましたが、そんな時間がクソ無駄だということにも気づきました。

 

 

んで、歳をとるってこと自体は、あまり意味のないことだと思っていて。

だって時間という概念も感覚もめちゃ曖昧じゃないですか。目に見えないし。この1秒がほんとうに正確な1秒であることを計測するために、その1秒の半分、またその半分の半分の正確性というふうに計測し続けていったとして、その正確性の計測は永遠に続くのでそれらの正確性は永遠に判明しないですよね。永遠に交わらない漸近線のような。わたしはわたしを生きるしかないので、体感する主観的な時間が客観的に同じとされるあなたが消費してきた時間と同じくらいのスケールのものであったか、証明することはできないので、重ねた数字の大小であーだこーだ言うこと自体無駄だと思っているし、そもそもそんなことは本質ではないです。

 

だから誕生日は、無事に生き延びたこと、生き延び続けていることを年に一回お祝いする日だと勝手に決めています。

 

そして一歩ずつわたしはわたしのいのちを燃やして確実に死に近付いていく。

人生に残された時間はそんなに多くはないということを、身をもって確かめる日でもあるのかなあああ

 

だから、わたしはわたしを、使い切りたい。

余すところなく骨の髄までしゃぶりきってから死んでいきたい。

 

だっていつか死ぬからさーー🤗

 

そして友達と家族の誕生日くらいは覚えたいなーー🤗

痴漢よ、お前は一体誰なんだよ

痴漢に遭うことは少ないけど、露出狂にはわりと遭うあみこです。

 

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夜道や人気の少ないところならまだしも、電車の中で見せられたこともあるよ(えぐいので描写は割愛)。

 

 

 

そういうときに決まっていつも思うのは、

"ムカつくんだよ!!!"という怒りの感情だけ、、、

女の子がよく言う、"恥ずかしかった‥"とか"怖かった‥"とかそんな気持ちには不思議なことに全くならない(むしろなってみたい)。

 

だって、"お前何様なんだよ????"って思いませんか?痴漢でも露出狂でも、やるなら金払えや。

なんでワイがタダで見知らぬカッコよくもなんともない汗くっさい脂くっさいオッサンに無償で体を触らせたり視界にイチモツが入ってくるのを許さないといけないんですかね???

そりゃあ自分の好みの男性とか好きな人にだったらいくらでも触らしてあげるしむしろ触ってください見せてくださいって感じですけど、お前は一体誰なんだよ。

 

女性とあんなことやこんなことをしたいならトーク力を鍛えたり身なりに気を使ったり出会いの場へ足を運んだり、お金も時間も使わなければいけないのは自明だと思うんですけど。え?仕事頑張ってるって?毎日へとへとで、だからこうして満員電車に乗ってるって??

、、、、あのな、仕事頑張るのは当たり前だし1ヶ月ちゃんと出勤したら毎月お給料をキチンと振り込まれるんでしょ?見返りが約束されることに対する労働なんて、努力でもなんでもないからな。生きてく上で当然のことだ。おこがましい。

 

なんの努力もせずに男根を目の前でぶらんぶらんさせる資格はお前にはないんだよ!!!!くたばれ!!!!!!