猫背歩行

インスタ映えしない心の内です。ラジオでたまに喋ってます

病みも闇も笑い飛ばしたい

病んだ人の相談に乗ると、"ひっぱられる"気がして怖い、という意見をよく聞く。

自分もそっち側へ引き摺られるのでは、という意味である。

それって、自分の引き出しにない感情をぶつけられた反動なのではないか。

ようは未知との遭遇のショックみたいな。

 

自慢じゃないけど、いや自慢しても仕方ないけども、わたしはひっぱられた経験は少ない。何度も自殺未遂を繰り返してる友人の話も、わりと冷静に聞けるし、強迫性障害をもってる人のよくわかんないこだわりに殺されそうだという話も結構フツーに消化できた。

なぜなのか、その理由をボヤーッと考えていたんだけど、きっとなんとなく相手の感情と言ってることがわかるので、"あ、それわかるーまじキツイよねー"てきな、ヘビーな病みトークもわたしにはOL昼休みトークになっていることに気づいた。そしたら友人も段々と暴露に暴露を重ねてきて、最終的に、アッハッハ大丈夫大丈夫きっと大丈夫だよな、みたいなとこに着地する。

病みも闇も、最終笑ってやればこっちの勝ちなのだ。

 

わたし自身、遺伝的なものもありメンタル面では色々あったし、何度も"今日こそほんとにダメだ"と思うガチでギリギリの夜も2、3度ありました(遠い目)。安定剤を頼りに夜をやり過ごすことの怖さは言葉になりません。

 

もちろん病み病み真っ只中の人の全部を分かるわけではないし、わたしと話したところでなんにも解決はしないんだけど、てかメンタルの解決なんて個人の頑張りとか以前に時間の問題ですからね。だれかがなんとかしようとかマジ無理だし無駄。できることは話を聞いてあげることだけ。死にたいって言ってる人に死ぬなはNGだし、リスカしてる人に切るなはご法度です。

わたしが思うに一番この世で辛いのは鬱の症状でも不安障害の発作でもなく、誰にも共有し難い恐怖を自分一人で抱えないといけない重圧と孤独だ。

病み病みマンに対する傾向と対策を考えて提示するのは本来医者の仕事であって素人のわたしたちではない。

 

わたしたちにできることは、あなたは孤独ではない、ということを示してあげることだけなんだよな。そして一緒に深刻になるのはやめて、できれば笑い飛ばしてやりたいし、わたしも笑い飛ばしてほしいな、と思うのであります。

ぶりっ子はなぜ嫌われるか

ぶりっ子とのエンカウント率って、

意外と高くないですか?

 

 

ぶりっ子って痛いですよね、そもそも"ぶりっ子"って言葉がかなり悪意で出来てる単語で、あなたぶりっ子だよねと言われることは大多数の人にとってマイナスの評価以外のなにものでもない。

なのに、オフィスで、学校で、ご近所で、なんでぶりっ子は絶滅しないのか。

 

はやく絶滅危惧種になってほしい!と思っているのに全く絶滅する気配のないこの生態について考えたのでまとめてみました。

 

 

 

【なぜぶりっ子は嫌われるのか。】

その答えは簡単で、

エゴ丸出しだからです。

つまり、

"自分のことしか考えていない"のがバレバレだから、

損得勘定して行動しているのが見えてしまうから、

わたしたちは嫌悪感を覚えるわけです。

 

 

 

人って褒められると嬉しいじゃないですか。

それって、褒められることで"自分の行動を見ていてくれた人がいた"ことを実感できるからなんですよ。つまり他者によって自分の承認欲求が満たされるから嬉しいはずなんですよ。

承認欲求っていうのは、そういうふうに他者から他者主体のタイミングや機会において報われるのが普通なので、自分から積極的に"ぜひ承認してください!てへ!"って言って回るようなものじゃないわけです。

 

でも奴らは言って回っているわけです。

自分の思いのまま承認欲求を満たされようと思っている時点でナメてますよね。人生なめんな。アホかお前は。

 

 

ま、どんなモチベーションで自分をよく見せようとしたとしても、それを異性の前だけでやってしまっている時点で、冒頭でも話したように"まず自分の損得を考えている"のが外側から見えちゃうので、やるなら損得を考えていないぶりっ子すればいいんすよ。つまり異性同性問わずぶりぶりしておけばいい。これがわたしの通常営業なんです、という顔で生活していればいい。少ないけれどそういう"プロぶりっ子"ともたまにエンカウントする。

 

でも個人的には、他者からの評価や承認を自分から強引に勝ち取りにいく勝気な生き方はあんまり好きじゃないので、"誰かに承認されたい!"ではなく、その前に、自分で自分を好きになることや自分自身で承認するということ(これが意外と難しいのだけど)を目指していくほうがよっぽど生き方としてかっこいいと思うのでぶりっ子にはやっぱ賛同できないです。ごめんよ。

地獄を生きる

8月が終わりました。

夏休みが終わって、新学期が始まるので、学生さんの自殺が増える時期ですね。

今日は少しだけ、いつもより赤裸々なことを。

 

 

 

ザックリ言うとわたしは不安を感じやすい体質で、学校に行くのも、外出するのも、誰かと話すことも、全部が異様に怖くて、10代前半まで常に死にたい消えたいと思っていました。

過呼吸や吐き気など、身体症状を伴っていたので日常生活への支障も大きく、時間通りに登校したり授業に出たり、当たり前のようにみんなができることができなかったので、本当に人間として出来損ないなような気がして、自分自身に対する苛立ちや悲しさが抑えきれないときは自分で自分を殴ったり軽い自傷行為をすることでその気持ちを和らげていました。

人前で泣くのは悪いことだと思っていたので、誰にもSOSは出せませんでした。 

教室に入ると息ができないこと、夜寝る前に学校のことを考えると窒息しそうに胸が苦しくなること、外食ができないこと、旅行に行くと不安でパニックになり周囲に迷惑をかけること。そしてそれをまわりに不思議そうな目で見られること。

どこにいても毎日ジリジリ焼かれるような肩身の狭さを感じていて、とても居心地が悪かった。

 

色々ありましたが、不思議と一番苦しかったことは、"苦しいということを誰にも共感してもらえないこと"でした。

 

もうだめだ、もうだめだ、と乗り越えられるかどうかギリギリの夜に、同じような思いや痛みを知っている人のブログを読んだり、音楽を聴くことで、孤独感は少なくとも和らいだし、そのおかげでなんとか朝を迎えていました。

 この気持ちを理解してくれる人がほんの少しでもいるのかもしれない、ということだけが希望でしたし、そうやって何度も生き伸ばしたりして。

 

 

今でも完全に克服したわけではないですが、薬を服用しながら、とてもフツウに生活していますし楽しいことも勿論あります。

恐怖を感じるポイントがズレているので、理解されないことは今でもよくあります。

それでも、大人になっていろんなコミュニティや社会の仕組みが少しずつ把握できるようになったことで、ほんとうに少しずつですが、生きやすくなってきたのは間違いありません。

 

今は、昔できなかったことが余裕でできるようになったりしている自分が面白いです。

必死に生き伸ばしてきてよかった。

 

過去の自分は、誰かの内面やデリケートな部分を覗き見することで、"ひとりじゃない"と安心できていた気がするので、同じような感覚の人がいれば、、、と今回このような記事を書いてみました。

 

リスカ画像が今でもよく出回り続けるのも、リスカを見せたい子もいるし、それを見て何故だか安心してしまう子もいて実は需要と供給が一致しているからです。

 

もちろんそれぞれの弱いところを見せ合って、生き伸ばせるなら絶対そのほうがいい。わたしの人生が誰かの生き伸ばしの材料になるなら、いくらでも切り売りするし、自分で言うのもなんだけどそれなりの地獄をみてきたので、それがなにかの役に立てばいいなと素直に思っています。でもリスカはどうしても跡が残ってしまうので、切るものをせめて髪の毛とか、そのへんの紙とか、爪とか、後々どうとでもなりそうなやつに変えてみるのはどうかな?と個人的には思っています。

 

とにかく、しゃーなしでも、かっこ悪くても、生きていればとりあえずちょっとずつ自分自身にも、傷つくことにも慣れてきて、思いのほか生きやすくなったりもするので大丈夫ですよ。今はごまかしごまかし生き伸ばせたらそれでいいんじゃないでしょうか。

 

そもそも、学校に行けないから、コミュニケーションがうまく取れないから、人間関係をうまく構築できないから、就職できないからとか就活失敗したからとか、そんなことであなたの価値は測れないので安心してください。

 

 

 

こういう話をすると、暗すぎるとか、ネガティブこそ崇高みたいなのやめろとか、そんな見当違いなことを言われる可能性もあるし、まあ実際言われたこともあるんですが、でもそれってわたしの言葉は届かなくてもいい奴らにも届くくらいのデカさで鳴ってるってわけだから、届くべき人に届いてねって感じです。

着る自由

数年前、わたしはロリィタファッションブランド(わかりやすく言えば、ちょっと違うけどまぁゴスロリ)のショップ店員だった。


フリッフリのワンピを着て出勤する私に、『もっと似合うカッコあるのにあんたはなんでそんなんばっかり着るんや』とよくオカンが言ってたのを覚えている。

いやいや、


似合ってなくて何が悪いねん。


そもそも、ゴスロリが似合う女なんてなかなかいないのである。そんなことはわかっているけど、それでも私たち愛好家はトータルコーデに10万近くお金をかけて、休日にはアメ村やライブハウスに繰り出したものである。それがとてもとても楽しかった。


似合ってるか似合ってないかなんて、わたしたちにとってそんなに重要じゃなかった。むしろ、好きな服に袖を通せているかどうか。ぶっちゃけ私も似合っていなかったし、一緒に店で働いていたスタッフたちもそんなに似合ってなかった笑(1人だけ、140センチくらいの小柄で童顔な先輩は少し似合っていた気がするけど)。


今は、色々な服が着てみたくてロリィタをあがったものの、バッチリ決めて街を闊歩するロリィタちゃんたちを見ると胸が熱くなる。もちろんみんな全然似合ってない。服に着られてる。でもええやん、と思う。モテとか男ウケとか抜け感とか一切気にせず、自分の[好き]だけを貫ける姿勢がとてつもなくロックでパンクだ。


常識的であることが、自分に嘘をつくということなら、華美な服装で街を歩く彼女たちは非常識なのかもしれないけど。

いろんなことをごまかしながら常識的でクソつまんない大人になるより、ずっと素敵だ。

ずっとそのままでいてね。

そう言いたくなる。

まなざし。-モブキャラとして生きるわたしとなんにもないことについて-

自分のことをなんにもない奴だと思う。

 

なんにもないまま歳を重ねてアラサーになった。

特に生活に不自由しているわけではないけど、なんにもない。ということが喉につっかえていつも違和感がする。

 

しかしモブキャラみたいな自分が嫌だと思うその真理は、世界が自分以外の視線によって構築されている、というごく健全な思考からなるのだと気付いた。

わたしをモブキャラたらしめているのはまぎれもなくHe/Sheの存在であって視線である。

裏を返せば、彼らや彼女たちがいなければ(わたしがその存在に気付きさえしなければ)わたしは主婦でもホームレスでもニートでもなんであってもモブキャラにはならないのである。

 

そんなことを気にしている。

薄っぺらい0.03ミリくらいのいやらしい自分のプライドや見栄が恥ずかしい。

 

でもさいきんは極薄でもなかなか破けないよね

 

人間って難しいな〜

寂しさが人を殺す

こないだ会った女の子は、手首がリストカットの痕でズタズタだった。たんなる切り傷じゃなくて、ほんとに深くパックリやってしまったようで、なかの肉が膨れ上がって小さな山が腕の中にいくつかできていた。話をしてみても、だいたいは自分の不幸についてか、そうでない話題を振ってみても、結局上手くいかない家族関係や環境の話になった。でも彼女は笑っていたし、わたしがウンウンと話を聞くのが嬉しいみたいだった。


出勤するたびに泣き出したり倒れたりする後輩がいた。比較的歳が近かったので、話を聞いていると彼女も色々と心の内を話してくれたけど、仕事の悩みはともかくとして、結局しんどい自分、仕事についていけない自分に気づいて欲しい、もっと心配して欲しいという想いが手に取るようにわかってしまった。


4月には、身寄りのない友人が最愛の彼氏に浮気をされたショックで亡くなってしまった。


結局みんな寂しいんだよな。

寂しさは人を殺してしまう凶器。

承認欲求も、自分を見て欲しい欲も、わかって欲しい欲も、寂しさからくる。人は寂しくて本当に傷つくし死んでしまうけれど、そんな人を救えるのも結局人でしかない。それはお金でもセックスでも思想でも神でもない。言葉にできないような、言葉にしようとすることすらアホらしくなるような、20数年生きてきて聞き飽きたような、思いやりとか優しさとか、恥ずかしくなるくらい当たり前の感情の大切さが身に染みる。

素っ裸の芸術と代替可能な芸術について

趣味で、いろんな音楽を聴く。いろんなライブに行く。

プロでも、アマチュアでも、メジャーでも、インディーズでも、売れていても、売れていなくても、そんなのは関係なく、そんな安っぽいカテゴライズを飛び越えて、耳に引っかかる音楽というのがある。

 

そういう音楽に出会う度、皮膚の裏側がゾッとするような感覚になって、体じゅうの血流が一瞬だけとまる。

その感覚がうれしいし、それが生き甲斐だ。

 

こうすればカッコいいんでしょ、とあざとくパッケージされた音楽は、確かにカッコいいんだけど、それだけだ。

カッコいいものはこの世にいくらでもあるから代替可能だし、代替可能なものはマーケティングによって作られる。

なので、そもそも、この場合、"あなたである必要"がない。

だから、耳に引っかからない。

 

あなたにしか書けない言えない言葉や心を切り取って表現されたものだけがやっぱり誰かを振り向かせるし、わたしも振り向いちゃうし、とっても素敵だ。

でもってそれは人生で人体で内臓で、絶対誰にも奪えなくて、悲しいけど奪ってあげられもしないようなものだ。

 

 

残念なのは、演奏の上手いバンドや、歌の上手いシンガーソングライターはいっぱいいるのに、あなたでなければいけない理由があるミュージシャンはとても少ないことである。

 

 

そもそもわたしは、赤裸々な人が好きだ。

本当にカッコいいものは、本当は全然カッコよくなくて、みっともなくて、恥ずかしくて、生々しい。その形は人それぞれで、でも人それぞれ必ず抱えているもので、それが剥き出しで差し出されたとき、わたしはあなたと向き合うことができて、あなたもわたしと向き合うことができて、お互いに秘部をこっそり見せ合うようなオーガズムを感じる。

その瞬間だけは、普段の生活の中で、面倒くさがられるのが怖くて誰かに泣きつきたくても言い出せないことや、死ぬほど後悔していることや、恥ずかしくてずっと隠している漠然とした不安を、少しだけ、あなたと共有できている気がする。

 

あなたが真剣にあなたに向き合った結果生まれた音楽が、わたしをわたしと向かい合わせてくれる。

それが芸術なのかな?と偉そうに思ったりもする。

 

 

音楽の楽しみ方は人それぞれでもちろん良いけど、お金儲けを考えた時点で、そのミュージシャンはビジネスマンだよ。と、大槻ケンヂが言っていた。

 

わたしが自分の大事な時間を使ってyoutubeから、CDから、ライブハウスから出会いたいのは、いまのところビジネスマンではない。

 

ミュージシャンである。

 

少なくとも大槻ケンヂはミュージシャンだと思っている。