猫背歩行

インスタ映えしない心の内です。ラジオでたまに喋ってます

自分の骨の髄をしゃぶりたい

ごきげんよう!!!!

 

人の誕生日は全く覚えられません!あみこです。

自分の誕生日がもうすぐだということも、すっかり忘れていました、、

ズボラなので毎年こんな感じですが。

 

もう26歳ですよ。

10歳くらいのときは、自分が20歳まで生き延びることはできないと思っていました。

 

だって毎日どこかの殺人事件がニュースになっている世の中で、自分がそれに巻き込まれないほうが稀じゃないのかと(具体的な事件数とかは当時知らなかったけれど)勝手に"ほっといても人間そのうち死ぬ感"をわりと日常的に感じながら生きていたわけです。

死は身近でした。

 

だから誕生日というのも、

この一年無事に生き延びきった幸運を祝うものなのだと思っていて。

(今年もニュースにならなくてよかったね!的な‥)

 

で、高校生くらいから意外と毎年生き延びているということに気づいたよね。

 

周囲にも拉致されたり殺人に巻き込まれたりする人はほとんどおらず(まぁそりゃそうですよね)、思っていたより日々が淡々と流れていたので、人生"いつ死ぬかわからないサバイバルゲーム"な感覚は次第に消えて、今度は(人間なんてしょせん都合のいい脳ミソなので)自分のいのちが無限であるかのように錯覚しはじめるわけです。もちろん永遠に死ぬことはない!と思っていたわけではないですが、"いつか死ぬだろうけど、ただそのいつかは当時のわたしにとってほんとに他人事だった"というか。食べても食べても減らない、伸びきったラーメンをダラダラ食べ続けるような感覚というか(わかりにくい)。

 

でも、ここ数年で、誰かが亡くなったり、結婚したり、出産したり、突然の異動で急遽今まで全力で取り組んできた仕事から引き剥がされる先輩がいたり、環境はボーッとしていたらすぐ変化してしまうこと、確実にわたしたちは時間を消耗していて死に向かっていること、頭では分かっていても、からだで分かっていなかったことが分かりすぎた瞬間が多々ありました。

 

 

 

わたしという存在が有限であることに本当の意味で気づいた時、わたしが生きているこのわたしの、よいところもわるいところも外側に出さずに腐らせて無駄にするのはもったいないし、せっかくいのちがわたしを選んで生きてくれているわけなので、その時間を大切にするのもいいかな、と思えたとき、少しだけ今までよりも自分を大事に扱うことができるようになってきました。

 

またわたしは(外からどう見えているかは知りませんが)自分を卑下したり過小評価したりするのが好きだったので(というか美徳だと思っていたので)、どうせわたしなんてとよく言っていたしほんとに思ったりもしていましたが、そんな時間がクソ無駄だということにも気づきました。

 

 

んで、歳をとるってこと自体は、あまり意味のないことだと思っていて。

だって時間という概念も感覚もめちゃ曖昧じゃないですか。目に見えないし。この1秒がほんとうに正確な1秒であることを計測するために、その1秒の半分、またその半分の半分の正確性というふうに計測し続けていったとして、その正確性の計測は永遠に続くのでそれらの正確性は永遠に判明しないですよね。永遠に交わらない漸近線のような。わたしはわたしを生きるしかないので、体感する主観的な時間が客観的に同じとされるあなたが消費してきた時間と同じくらいのスケールのものであったか、証明することはできないので、重ねた数字の大小であーだこーだ言うこと自体無駄だと思っているし、そもそもそんなことは本質ではないです。

 

だから誕生日は、無事に生き延びたこと、生き延び続けていることを年に一回お祝いする日だと勝手に決めています。

 

そして一歩ずつわたしはわたしのいのちを燃やして確実に死に近付いていく。

人生に残された時間はそんなに多くはないということを、身をもって確かめる日でもあるのかなあああ

 

だから、わたしはわたしを、使い切りたい。

余すところなく骨の髄までしゃぶりきってから死んでいきたい。

 

だっていつか死ぬからさーー🤗

 

そして友達と家族の誕生日くらいは覚えたいなーー🤗